« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »

2006年3月

暴走の停止権限

明白な違反が無ければ事業者を止める事は出来ない。

というのは役人の基本的スタンスで、一般の事業であれば特に問題は無いと思いますが、「国策」として推進されている事業の場合、規定が推進を止める形になっているはずも無く、正の反応度係数とも云え、当たり前のように暴走に至ります。

50年前に走り始めた日本の核政策は時代遅れになったにもかかわらず盛大な暴走を行っており、その象徴が「もんじゅ」であり、「六ケ所再処理工場」であると思います。

暴走をするような行政組織の形態そのものが批判されるべきであり、本来その為に保安院などは設置されたはずです。

けれども最初の1行は保安院の方の発言を私なりに要約したものであり、暴走を止めるような気配すらありません。

規則を守っているから良い、というのはその規則が正しい場合に限ります。国策として原子力を推進する官庁が作成した規則が原子力の普及を妨げるほどの規則を定めることは非常に困難です。

けれども米国のNRCなどはその困難なことを実行したように思います。安全確保のために規則を厳しくした結果、米国では20年以上原子炉の新設が行われないという事態になりました。

地震の規則などは米国の方がよほど厳しく、日本の様に、国策推進の為に規則を緩めにすることは、蛮勇であり、この国の不幸である

と、思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イランと北朝鮮

六ヶ所村の核燃施設を考えると、イランと北朝鮮を思います。

イランや北朝鮮を相手に交渉をしている際に、相手から

「日本には六ケ所があるぢゃないか」

と、云われてなんと答えるのでしょうか。

「日本は唯一の被爆国だから」

と云えば、

「だから仕返しをしたいのか?」

と、返されたら言葉に詰まります。

逆に、六ヶ所の再処理工場の操業を延期して、北朝鮮やイランに

「日本は小資源国だけれど、それでも停止したぞ!」

と宣言したら、相手が困るでしょう。

是非とも、建設までした再処理を停止することで、イランや北朝鮮に核開発停止の圧力をかけることを望みます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

罪と罰

罪が無いのに罰してはいけません。

当然です。では「罰が無いから罪が無い」といえるでしょうか。

法律に規定が無い場合、罰するのはいけませんが、罪が無いとは云えないかもしれません。完全犯罪は罰せられません。だからと云って罪が無いはずがありません。

放射性物質を環境に放出した場合、放出した量に応じて集団線量は高まります。薄めた場合、影響範囲が広範囲に広がるので、放出した量そのものが大事だと思います。

放射線は直接にあるいは間接的にDNAを破壊したりします。大部分は修復されますが、放射線の量に応じて傷害そのものは発生します。これは罪では無いのでしょうか。

修復されなかった場合、ガンになったり、遺伝的影響となったりします(広島長崎では遺伝的影響は観測されていませんが、爆発以外の現象では異なる結果になっても驚くべきではありません)。これも放出された放射性物質の量に応じて、それ相応に発生するでしょう。

けれども、放射性物質に由来が書かれているわけもなく、ガンの原因も放射線のみではありませんので、ガンの発生だけを理由に罰する訳にはいかないのかもしれません。

では、そこに罪はないのでしょうか。

青森県知事は六ヶ所村の再処理工場の稼動に同意したようです。「罪があったとしても放出する。」という決意を持った人のみが放射性物質を環境に放出する資質をもっている。

ような、気がします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

国がやること

国がやることだから

というところで思考停止するのは一つのパターンです。

  1. 国がやることだから大丈夫
  2. 国のやることだから仕方が無い

正反対ではありますが、いずれも承認していることには替わりがありません。

国がやることは、その原動力が大きい為、暴走すると悲劇は途方も無く拡大します。広島に原爆を落とすのは「国家」でなければ出来ない芸当ですし、インパール侵攻のように無茶な作戦も国ならではの強行でしょう。

原子力発電所のPR館では「国策だから」と、目をキラキラさせて説明します。

国策だろうとなんだろうと、ダメなものはダメだと云わなければ、インパール作戦には参加させられてしまうし、原爆は落ち続けます。

六ヶ所村の再処理工場は無駄に危険(政治的にも経済的にも医学的にも)を増やします。九州電力玄海原発のプルサーマル計画を推す理由が「プルトニウムの在庫を増やさない」というのであれば、これは無法です。一方で在庫を積み増しながら、他方で在庫を消化しなければならないから、と危険を(少しでも)増やすのは、マッチポンプというものでしょう。

在庫を積み増す事になる六ヶ所村の再処理工場を先に停止しなければならない。

と、思います。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

FII-3

福島第二原発3号炉はどうもトラブルが多い

という印象があります。昭和末年の再循環ポンプの破壊が最も大きな事件だと思います(昭和天皇崩御の影に隠れて報道は小さかったようですが)が、その直前にも細かい故障が続いていますし(これを兆候としてきちんと点検しなかったから再循環ポンプ破壊に至ったと考えられます)、2002年のひび隠し問題でも重要な役回りを演じています。

お祓いでもした方が良いんじゃないか。

などという冗談も出るくらいですが、オカルトでは無く、過去の故障が直しきれていないとか、実は建屋の精度が悪い、とか、色々想像します。

で、今回、また再循環配管で全周にわたるひび割れが見つかったそうで、作業担当者が間違えた、ということで、あたかも作業者のスキルの問題と取れるような報道がされていますが、2002年の傷隠しの際の電力会社の説明によれば、超音波探傷で信号が出た場合、溶接の裏波と判定する場合には、作図をして判定を行う、とのこと、今回も作図等を行って、判定したハズです。

それでも傷を見逃していたとすれば、これは「検査可能性」の問題です。原子力発電所に関連する機器はすべて検査可能でなければなりません。ボイラーの安全弁は何度でも使用でき、きちんと動作することが確認可能である必要があります。例えば、自動車のエアーバッグの様な、一度動作したら2度と使用できない機器は、原子力発電所には馴染まないはずです。

きちんと検査をしたにも関わらず、傷を見逃したのであれば、超音波探傷では検査可能とは看做せないのではないでしょうか。検査が出来ないのであれば、安全確保に大きな障害となる

と、思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

絶対安全

読売新聞の昨日の社説で、

原子力に「絶対安全」を求めた問題判決と言えるだろう。

と、あるのを見て「あの程度で絶対安全と呼ぶのか」と、正直少し驚きました。

多くの専門家が「ありうる」と判定しているものを「ありえない」と書くのは「反科学」と言って良いと思います。高々、特定の原発が新しい地震学の知見を元に危険であると判定されただけで「科学技術否定」というのも変な話です。

読売新聞の社説では、「現在の科学の水準を考慮する」程度のレベルであっても「絶対安全」と呼ぶようです。その程度の「絶対安全」であれば、不可能とは云えませんし、推進派の住民にとっても原発建設の必要条件でしょう。尤も、その程度を「絶対安全」と呼ぶのは誇大広告の恐れがあると思います。

「絶対安全」など存在しない。

という主張は、通例、「人間の知は不完全である」という信念に基づいている、と、思います。世間的に、「絶対安全」が必要とされるのは「核関連技術」や「生命関連技術」くらいに限られ、それ以外の科学技術には余り「絶対安全」は要求されていないようです。それ故に、「絶対安全」が要求されても科学技術の一部しか否定されないように思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

勝訴

志賀原発の差し止め裁判が原告勝訴でした。

万歳!おめでとうございます!

昨日の上関原発(中国電力の計画する原発。地震予知連の特定観測地域内に一部埋立地となる向こう見ずな計画)を巡る漁業権裁判では、漁業権は認められたそうで、実質勝訴だそうです。検索しても見つからないから中国新聞の記事

もんじゅに始まる一連の住民勝訴の判決に、ようやくと、原発推進の勢いの鈍りを感じます。80年代から少しずつ推力を失ったけれど、それでも日本の公共事業の慣性は大きく、ようやく、裁判で原発反対の判決が出るようになった、

ように感じます。

飽食の時代に「危険に目を瞑った電力の確保」と「漁業の保全」で、漁業の保全の方が勝らないようであれば、日本の未来には荒涼としたコンクリの町並みのみが残ることでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

PSE雑感

PSE法が話題になっています。

電気は意外と危険なもので、意外と火事の原因となっていますから、一定程度の安全基準が必要だ、という主張も分からなくはありません。

ただ、使用するしないは、使う人の自由が認められるべきだと思います。集合住宅ではガスの使用が禁止されたりする場合もありますから、コミュニティで同意が取れれば、基準を満たさない電気製品を使用禁止にするのもアリだと思います。荒野の一軒家であれば、古い電化製品を使用しようと勝手でしょう。だから販売を禁止するのまでは、やりすぎだと思います。

例えば、戦前の電蓄や幻灯機を使用する場合、漏電等の危険を考慮しないのは、拙いとも思います。けれども骨董品は骨董品として扱えばなんの問題も無いでしょう。

尤も、1989年あたりをビンテージの基準にされてしまうと、ウチの電化製品はビンテージだらけですけどね(笑)

1984年製のテレビ(意外と消費電力が小さい)。1985年製のオーブントースター(電熱線は昔から効率は変わらない)。同じく1985年製の冷蔵庫(小型の冷蔵庫は大型よりも進歩が遅いので、昔の冷蔵庫も意外といける。)。そろそろ電源ケーブルくらい変えたほうが良いのかも知れないけれど、現役でがんばってます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

三つ子の魂

本棚の隅から「アイソトープセンター利用の手引き」なる小冊子が出てきて、学生時代を懐かしく思い出しました。アイソトープセンターとは放射性同位体の実験施設でして、放射性の同位体を扱うときは基本的に、この施設内で行います。

初めての放射線実験の指導の先生は非常に被曝にうるさくて、「目標0被曝」であるように感じました。コンクリの壁に線量計を向け「ほら放射線など普通にあるんだ」とおっしゃる他の諸先生方からは「あんな風にしていたら実験にならない」などと云われていたように記憶しています。

放射線を扱う実験をするには講習を受けなければならないのですが、そのときの講師の先生は楽観的な先生と、悲観的な先生の丁度中間位で、抛っておくと無謀なことをするであろう少年たちを半分脅す感じもありました。今でも覚えているのは腕時計の夜光塗料で工場の作業者が被曝をした話で、塗料を塗る筆を舐めて穂先を整えた為に体内被曝となった由。「鉛筆を舐める癖がある人は直してから来てください」というのが印象的でした。

今から思うに、自分が選んだ道で、自分が被曝する分には(無意味な被曝を避けるのは勿論ですが)少量の被曝はしても良いかと思いますので、楽観的な先生の立場を支持しますが、他人を被曝させる場合には、やはり「被曝0」が正しいか、と、悲観的な先生を支持します。このようにタイプの異なる先生に指導されることは稀でしょうから、両方の先生方にお会いできたことはやはり幸運であったかと思います。

さて、きちんとした施設で作業をする場合には線量計やフィルムバッチも付けていますし、間違って放射線を浴びすぎても、どの程度被曝したのかはほぼ間違いなく分かりますから、徒に畏れる必要もないわけです。ところが一般公衆ではフィルムバッチなど付けていませんから、いざ近隣の原子力施設で事故でもあれば自分がどのくらいの線量を浴びたのかすら分からないのですから、不安になるなという方が無理な話です。安心の為にはいろいろな建物を建てるより、ペン型の線量計でも配った方が良いのではないか、と思います。(日常的に付けたいと思う人は稀だと思いますが。)

放射線実験の施設を出る際には確か、手足やお尻(座ったりすると放射性物質が付く)に線量計を当て、放射線が検出されたら検出されなくなるまで手洗いを繰り返したように思います。「キレートの風呂に入れるぞ。脂なんか全部落ちるぞ。衣服は全部廃棄処分。」と脅されたことも、今となっては懐かしい思い出ですが、あらためて「手引き」を見ると、年間取扱量(まだキュリーで書かれています)は六ヶ所村の再処理工場の管理放出量と比べれば桁違いに小さく、あれほど外部に漏れないように気をつけていたものよりも大量の放射性物質をばら撒くと思うと、やはり、賛成するわけにはいかないなぁ、

と、あらためて思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

愛国・憂国

愛国心無くして憂国の情無く、憂国の情無くして、誰が原発に反対などするのだろう。

などと、時に自分の深層心理を分析してみたりします。

愛国心というと、いわゆる知識人に反感を買いそう(絶対)ですし、悪用されてしまいそうだから「郷土愛」とでもしておきましょうか。「郷土愛」も無く、功利主義的に考えるのであれば、南半球の「非核地帯」にでも移住した方が心が休まるというものです。

他国の核武装の言い訳にされ、コスト高で、汚染も広がる。再処理工場は亡国の事業ではないか。

とか、いろいろ考えてしまいます。

「うさぎおいしかのやま」に放射性のゴミを埋めて欲しくないのは人として当然の感情であり、水が清くなければ故郷を思う心もやつれてしまおうというものです。

米国もソ連も製造した核兵器の被害は敵国より自国内が多い、などという事態にもなっているようです。自国の環境を破壊しないようにするのは自衛の第一歩である、

と、思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

明日は我が身

日経新聞の「終わりなき後始末」の下が掲載されて、少ない文字数に複雑な現実が凝縮された、新聞記事らしい良い記事であると、思いました。

あのチェルノブイリの事故から既に20年、現在の大学生の半分は生まれてすらいないのですから、語る大人がいなければ風化するのが当然です。

報道に大きな比重があるのは勿論ですが、「ただの人」でもブログに書くことぐらいは出来ます。膨大な情報の中の、少ない文字数ですが。

事故の起きた4/26まで、まだ一月あるのに各新聞にチェルノブイリの記事が載るのは六ケ所村の再処理工場とプルサーマルを睨んでの事でしょう。安全を「信仰」し、より危険な事を行い続けるのであれば、チェルノブイリも明日は我が身である。

と、思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

テロリズム

米国のイラク侵攻から3年

反戦デモに参加しそこないました。

テロリズムとは「心理的恐怖心を引き起こすことにより、政治的主張や理想を達成する目的で行われる暴力行為のこと。またはその手段を指す。」(ウィキペディアより)

進駐している外国の軍隊に対する民兵による攻撃をテロと呼ぶことは難しいでしょう。一方的に開戦したのち理想(民主化)を掲げる行為は、テロリズムでしょうかね、やはり。

イラクに安寧を、米国は撤退を。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

牛肉と六ケ所村

ライス米国務長官が日本政府のBSEに関する牛肉の扱いの対応を「過剰」と強く批判

と、ニュースになっています。

六ケ所村の再処理工場では放射性物質を排出し放題にしておいて(規制値が無いので事業者の都合次第)米国産の牛肉を厳しい基準でとりしまるのは不可解といえば不可解です。

ICRP(国際放射線防護委員会)の勧告なども他のリスクとの兼ね合いで特別強くも無く弱くも無いところを狙うという方針がありますように、色々なリスクのバランスは大事であり、BSEだけが強く規制されるのはあまり宜しくありません。

六ケ所村の再処理工場はもっと強く規制し、船舶と航空機の排出ガスをもっと強く規制しないと、米国発の牛肉や乗用車の排出ガスを強く規制するのは難しいのかもしれません。

あるいは、米国産牛肉は、排出ガスと異なり、「食べない」という選択が可能なので、実態さえ報道されるのであればもっとゆるい規制でも良いかもしれません。

個人的には牛肉は食べないので今ひとつ危機感が出ないのですが。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ホルミシス

放射線にはホルミシス効果がある。

というのはとりあえずは良いのですが、それがなぜか「微量であれば放射性物質を発電所や再処理工場から放出しても構わない」という論の根拠とされる場合があります。この展開が私には理解できません。

低線量を与えることで身体の耐性が高まる、という主張は丁度「種痘」と同様であると思われます。種痘が有益であることは云うまでもありません。では天然痘の細菌を弱めて散布することは可でしょうか。

勿論不可です。

天然痘よりももっと害が小さいものであればどうでしょうか。その辺の至るところに存在する雑菌であれば?雑菌を嫌い、身の回りを殺菌して回ると身体の抵抗力が落ちるそうですが、だからといって、公衆に雑菌を振りまく行為が容認されるわけではありません。

個人差、病歴や当日の健康を考えないワクチン接種は明らかに無謀です。ワクチン接種が医師以外の者によって行われることが容認できないように、たとえ低線量被曝に健康増進効果があったとしても、医師以外の者による被曝は容認できないように思われます。

リスクと便益を考える際、雑菌の事例を考えれば、ホルミシスがあっても、ホルミシスが無い場合と基本的に変わらない評価をするのが妥当かも知れません。

おまけに、ホルミシス効果は原子力産業の安全宣伝のために強調しすぎの感があり、今ひとつ違和感がぬぐえません。もしもホルミシス効果が間違いであった場合を考えると、あるいは自分が人類の平均よりも放射線に弱かった場合を考えると(おそらくその可能性は50%程度でしょう)とても積極的に放射線を浴びようとは思えません。

放射線防護というのは見えない放射線をいかに避けるかという問題であり、気が付いたときには浴びすぎになっている恐れがあるので、主観的には出来るだけ避けるというのが得策であると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

地上に太陽はいらない

原発に反対する人には意外と「お勧めの原子力」がある場合があります。

例えば、現在の原子力発電所で採用されている形式では原爆に適するプルトニウムが生成されるために現存する原発に反対する人はプルトニウムが作られないトリウム利用の原子炉や、核融合反応をお勧めしたりします。規模が大きすぎる為、リスクが割に合わないと反対する人は小型の原子炉をお勧めしたりします。

トリウム利用も核融合も小型の原子炉もお勧めしませんが、私にもお勧めの原子力があります。私のお勧めの原子力は

  1. 放射性物質が隔離され
  2. 放射線も防護される
  3. 核兵器にも利用不能

という、非の打ち所の無い原子力です。放射性物質は大部分が1.989×1030kgの巨大な質量が生み出す重力により捕獲され、放射線は1000kmもの厚さの大気によって防護されます。距離が地球から1.49597870×1011mも離れていて、表面温度も6000Kと高い為、核兵器に利用しようにも、人が近づくことすら出来ません。

「太陽」こそは最も優れた原子力です。

重水素でもトリチウムでもない陽子1個の水素の核融合反応から生み出されるエネルギーは増殖炉などのマヤカシと異なり、まさに事実上無尽蔵であり、太陽光発電、風力発電、波力発電、熱利用、と、様々な利用方法があることは衆知の事実です。特に先進国の都市で問題となるヒートアイランド対策には絶対的な強みを持つのも云うまでもありません。

原子力の黎明期の宣伝文句は「地上に太陽を」というものでした。しかし、オゾン層の破壊による皮膚ガンの増加が問題視されるように、ICRPで航空機の乗務員の放射線防護が討論されているように、太陽に近づくことは熱は勿論ですが、放射線という意味でも人のとる道ではないように思います。

近すぎる太陽は害毒です。地上に太陽は不要です。

※太陽までの距離等の数字は理科年表2006から。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

非核地帯

日経新聞の3/13に「終わりなき後始末」と題してチェルノブイリ20年の記事が載っています。チェルノブイリから早いもので20年が経ちます。20年後のチェルノブイリを淡々と伝えています。「上」となっていますから少なくとも「下」はあるはずで、「中」も期待します。

3/15には一面に「風向き変わる原子力」としてチェルノブイリから20年経って、喉元過ぎれば熱さを忘れた現代社会が原子力に追い風を送っている状況が伝えられています。こちらは原発が好きな方の記事のようで、次は期待しません。

3/15の一面で一番気になるのはインドネシアとベトナムで、ASEANは非核地帯条約を結んでいて、核廃棄物の空中放出すら禁止しています。そのなかでインドネシアが原子力発電所を動かそうとすると、「非核」の雰囲気が崩れ去るのではないか、と、危惧します。

世界の南半球はほぼ「非核兵器条約」が結ばれていて、私の認識では、それらの国々では「核」そのものが忌避されていて、原発も少ないと、なっています。メキシコ、ブラジル、南アフリカにはあるけれど、非核地帯条約の批准国の数から考えて、核兵器地帯と比べれば圧倒的に少ない、と、云えると思います。

譬えIAEAが査察を行っても国際的な疑心暗鬼は拭いきれないので、本気で「非核地帯」にしたければ原発も放棄した方が良い、と、思われます。

インドネシア、ベトナムが原発を作ると「非核地帯」のバランスが崩れて、ドミノ倒しのように「核拡散」になるのではないかと、危惧します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

希釈

水俣病の教訓として、毒物は「薄めて流してもダメ」というのがあると思います。

青森県六ヶ所村でまもなくアクティブ試験が始まろうとしている再処理工場は、しかし「薄めて流せば大丈夫」という旧時代の発想に立っているように思います。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

PRA

国のパブリックコメントを見ていて気が付いたのですが、PSA(確率論的安全評価)を米国ではPRA(確率論的リスク評価)とも言うそうです。

日本ではPRAとは言いませんから、これは安全文化の違いでしょう。

安全、と、言う人ほど危険なものは無く、例えば自動車の運転中に自分で「安全だ」などという人を信じてはいけません。

危険なものを危険と捉えて初めて安全は保たれる。と、思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

絶対安全

国は原子力発電所が事故を起こさないことを保証したりしません。

なぜならそのような法律が無いからです。

自動車は型式認定を受けなければ、大量生産できません。車検を受けなければ運行してはいけません。安全審査は型式認定、定期検査は車検に当たるでしょう。

形式認定を受け、車検を通っている乗用車が故障をしても誰も不思議にも思いません。同様に安全審査を受け、定期検査をしている原発が故障をしても不思議に思わないのが道理というものです。

「絶対安全」などマヤカシであるのは云うまでも無いことです。

「絶対安全」は地元が原発を受け入れる為の「必要条件」だったと思います。日本人の土地信仰は絶対的なものです。原発を受け入れる為には、その土地が汚染をされて居住不適になる事態など、万が一どころか、「絶対」に許されることではなかったと思います。

中央から派遣された役人も御用学者も提灯記事のマスコミも、都会の人は土地信仰を持ちませんから、「絶対安全」を「方便」として使用したのだと思います。ここに大きな断絶があります。

原発は基本的に人工密度の低い場所に建てられます。現在人口密度の低い土地に住む人は都会人と異なり、土地に対する思い入れが強いと感じられます。そこでは「絶対安全」が要求されて当然です。都会に電力を供給する為に蔑ろにして良い事では無いと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

5つの壁

原子力発電所には5つの壁がある、と、宣伝されます。

  1. 燃料ペレット
  2. 燃料被覆管
  3. ボイラー(圧力容器)
  4. 格納容器
  5. 建屋

建屋の無い発電所は考え辛いのでわざわざ建屋をあげているところにいじましさがにじみ出ています。(ボイラーの無い発電所も熱利用である限り難しい。またABWRでは格納容器は建屋と一体化しているので、数としては4が正しい。)

そして、この5を除くすべては再処理工場にはありません。それ故に、再処理工場では原子力発電所とは比較にならないほど大量の放射性物質を環境に放出することになります。

日本人の無意識の中に「75年生息不能といわれた広島・長崎も復興したのだから原子力災害もおそるるに足らず」という風潮があるような気がします。けれども広島の原爆は爆発は凄まじかったけれども後に残された放射能は800gのウランの反応の結果に過ぎません。対して、電気出力で100万kW級の原子力発電所は年間に1tものウランが反応しています。

さらに再処理工場には複数の原発の照射済み燃料が集まってきます。放出される予定の放射性物質は見逃せる量をはるかに超えています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

暴走

発電用原子炉は暴走するか?

という問いに対する一般的な答えは「暴走しない」というのは承知した上で、それでも暴走を危惧します。

軽水炉では遅発中性子の比率が0.7%程度だと説明されています。これに対し、余剰反応度はBWRでは13%程度だそうです。BWRでは泡によって反応が阻害されますから、その分は余分な燃料を入れておかなくてはならなくて、それが3%くらい。ということは、冷却水中の泡が瞬間的に0になるような極端な仮定をすれば即発臨界にはなるし、暴走と言えると思います。

勿論想定されている運転状況ではその様な事態には至らないでしょうから、境界がどの辺りにあるのか、が問題になると思うのですが、電力会社や国の宣伝資料からはなかなか見つけることが出来ません。

1987年4月23日福島県沖の地震で、東京電力福島第一原発の1,3,5号炉が自動停止しましたが、その理由が「中性子線束高」の信号の為だそうで、これは核反応が増大したことを示しています。

BWRではタービンがトリップした際に、主蒸気配管のバルブを閉じることで圧力が上昇し、泡が消えるために出力が上昇しますが、これが即発臨界までの半分程度の道のりだそうで、残りの半分を地震時の出力増加や、製造誤差、等、あちらから0.1%,こちらから0.1%と少しずつかき集められて暴走するのではないか、と、危惧します。

尤も、最も危惧するのは人間の暴走です。「安全だ」との思い込みの為に危険なことをしないよう、宜しくお願いしたいと思います。

東海地震の想定震源域に建つ中部電力浜岡原子力発電所で、制御棒の効きが通常のウラン燃料より悪くなるMOX燃料の使用許可が申請されたそうです。二重苦三重苦をわざわざ背負い込む電力会社はマゾの観すらあります。七難八苦を月にお願いしたりしているのでしょうか。

原子力施設が事故を起こすと多くの人が迷惑を蒙ります。原子力行政の暴走だけは勘弁して欲しいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »